中流域の歴史遺産・風土と河童伝説

地域で紹介したい自然・歴史・文化・工業・産業など
・中流域の歴史遺産・風土と河童伝説
紹介・解説できる人・団体(ボランティア学芸員)
・久留米郷土史研究会(メンバー100名)
・久留米の自然を守る会(メンバー100名)
利用・交流できる施設
・吉井「歴史金属資料館」・「田主丸ふるさと会館」(JR田主丸駅)・「久留米市収蔵館」
・「篠山城/高良大社宝物館」他
お問い合わせ先
・筑後川流域連携倶楽部事務局 TEL.0942-33-2121 FAX.0942-33-2125

中流域の豊かな河川景観と歴史的遺産、河童伝説等の民話・伝承

 耳納山系を背景にした緑豊かな筑後川中流域の河川敷は、流域の代表的な景観であり多くの人々と川の交流空間となっている。各所に点在する古墳や遺跡は東アジアとの交流史と流域の古代史を物語り、歴史的街並みと伝統行事、そして「河童伝説」や「水くり清兵衛」(オヤニラミ)の民話等は、古くからの流域相互の交流と川を通した「人と自然」のかかわり方を今に伝えている。
オヤニラミ カッパの像

筑後川筋、片ノ瀬のトポス
「みづくり清兵衛さん」の採話者行徳平八の生家は、田主丸町片ノ瀬(原大字菅原)であった。
 片ノ瀬は、江戸期のそのような有力な都市である日田と筑後川の中流・下流域を結ぶ船運の重要な中継基地であった。さらには、後年片ノ瀬橋ができるまでは、筑後と筑前を結ぶ大切な渡し場でもあった。片ノ瀬は、他地方の人と文化とが田主丸地方へ流入する一つの大きな窓口であり、地元の人と行き交う人とが、また在来の文化とよその文化とが出合って、新たな展開を生み出し得る交流の「場」となっていたのである。
 オヤニラミの田主丸地方在来の方名であるヨツメと、有明海沿岸の方名であるミヅクリセイベイ系の呼び名とが出合うには、片ノ瀬は誠にふさわしい地点である。こうして、この二つの特徴的で印象的な地方名が、一つの魚に重ね合わされた時に、片ノ瀬の人々の民話的想像力が思いがけない飛翔の翼をかち得た。そして、それ自体が一つの「象徴の森」のごとく多重的な意味に満たされた、「みづくり清兵衛さん」の話ができあがり、やがて徐々に田主丸地方に広がった。これが、この話の成立する事情と経過であったと見て、まちがいないと思われる。
多眼の篩と四つ目の魚
 「みづくり清兵衛さん」の話の類ない妙味がいかにして生み出されているか、そのしくみを要約しておきたい。何よりの要点は、オヤニラミを指す筑後川水系の二系統の地方名が巧みに重ね合わされたことにある。目が多く、異界を見通す呪物ともなる篩を作って里の村々を売り歩くのは、箕作りと呼ばれる山の民である。その一人であるみづくり清兵衛が、篩をもちいて天狗をだまし、さらに里人をあざむいた後で、川に落ちて目が多い魚になる。その魚は、彼にちなんでミヅクリセイベイと呼ばれることになった。しかし、この魚の一層よく知られた地方名は、その姿にちなんだヨツメなのである。
ミヅクリセイベイとエツ
 その時に、我々は、また新たに一つの発見をするであろう。その発見とは、ミヅクリセイベイとエツの親和性である。
 みづくり清兵衛は、隠れ蓑を着て里の家々を訪問しては悪戯をしてまわった。この点に注目しよう。来訪する武塔の神や須佐之男命の形姿は、蓑笠を着けた男である。
 越中富山藩(現 富山県中央部)には、「バンドリ騒動」と呼ばれる農民蜂起があった。バンドリとはムササビ・モモンガのことであり、また蓑のことでもある。バンドリ騒動の名は、一斉に蜂起した農民たちが皆、蓑を着用していたことによる。一揆の時に蓑笠を着用したのは、富山藩の農民に限ったことではなかった。網野善彦は、「一揆する農民たちが蓑笠をつけることは、むしろ普遍的といっても決して差し支えない」と述べている。
 この事実には、やはりどこかに来訪する神の姿が揺曳していよう。石上堅は、『日本書紀』の故事などを引いて、「古代の者にとっては、蓑・笠は一つの紛争衣料で、人格を離れて神格に入る―転生する手段なのである」とする。すると、農民が蓑笠姿に込めた自らの行為の正当性の主張をも読み取れるだろう。
 今や、みづくり清兵衛にも来訪する神の姿が揺曳していることは明らかであろう。ミヅクリセイベイ(オヤニラミ)は、みづくり清兵衛という来訪する異人の行為の結果として、片ノ瀬の渡しの辺りに初めて出現した魚であった。
 一方、エツもまた、来訪する異人の行為の結果として寺井津の渡しの辺りに初めて出現した魚であったのだ。
 このような、重層的かつ体系的な整理を試みるならば、田主丸に伝わる「みづくり清兵衛さん」の民話は、筑後川河口部に伝えられているエツの起源譚と構造的に、少なくとも何がしか相同であることが明らかになる。「みづくり清兵衛さん」の話は、このように、筑後川水系の大いなる水の記憶に、確かに、深く浸されているのである。
                           「田主丸町誌・川の記憶」より

日岡古墳の彩色壁画 東側上空から見た田主丸大塚古墳墳丘全景
(福岡県吉井町・吉井町教育委員会作図)  (写真提供/田主丸教育委員会)
6世紀後半に築造されたという同古墳の築造年
推定に誤りが無ければ、この時期の古墳としては
九州最大規模のものである。
吉井の白壁造り
 天正の頃(約400年の昔)、耳納山麓にあった中世以来の豪族星野氏の城下町が、その滅亡と共に交通などに便利な平地の小集落だった現在の吉井に移り、次第に各種産業も興って町の体裁を整えてきた。やがて江戸時代に入ると、有馬藩21万石の城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の中央に位置するところから宿場町また吉井銀と称された特異な金融活動で、資力を蓄えた商人の町。
久留米水天宮
全国水天宮の総本山、楠の緑が筑後川畔に影を落としている。久留米はかつて筑後川水運の物流拠点で、ここから下流の大川有明と宝満川を経て博多の2方向に分岐して流域の物産が運ばれていた。
鬼   夜
 冬の夜空を赤く染める大善寺玉垂宮の鬼夜は日本三大火祭りのひとつに数えられ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。毎年1月7日、午後9時の鐘を合図に、直径1m、長さ約13mの巨大な松明6本に火がつけられ、400人を越す締め込み姿の男たちが大松明を支え、境内をまわります。
北野天満宮
天喜2年(1054)、後冷泉天皇の勅令により創建された北野天満宮は菅原道真公をお祀りしています。境内に入ると鮮やかな朱の桜門や樹齢900年の大楠が出迎え、また、大変珍しいカッパの手が宝物として伝わっています。この手には、追手に襲われた道真公を助けようとしたカッパが敵に手を切り落とされたなどの数々の伝説が残っています。
トップページ流域の活動と風土上流域中流域下流域