中流域の水利用技術・水の文化 坂本 紘二

地域で紹介したい自然・歴史・文化・工業・産業など
・中流域の水利用技術と水の文化
紹介・解説できる人・団体(ボランティア学芸員)
・アドバイザー学芸員/坂本 紘二(下関市立大学教授)*問い合わせ・連絡は、筑後川流域連携倶楽部事務局迄
利用・交流できる施設
・連携倶楽部事務局及び流域の各自治体、観光協会にお問い合わせください。
お問い合わせ先
・筑後川流域連携倶楽部事務局 TEL.0942-33-2121 FAX.0942-33-2125

〈筑後川四堰、朝倉水車群と水利技術、水の文化〉

 1.袋野(獺之瀬)堰、袋野用水
袋野用水は、筑後川左岸465町歩を潤しているが、約1000間の隧道(トンネル)を掘り抜き獺の瀬地点に長さ64間、幅59間の石堰を築く難工事であった。村人は庄屋田代父子を恩人として祀った。
昭和29年の夜明ダム建設により堰が水没し、下流600m地点に新たな取入口が設けられたが、袋野用水は今も浮羽地方を潤し続けている。
水没した瀬の瀬堰と袋野用水の旧取り入れ口 今も使用されている袋野用水の隧道
 2.大石堰と大石長野水道
中流域の水田開発を大きく進展させた大石堰、大石長野水道によって筑後川左岸2,000haを今も潤し続けている。この堰は磔覚悟で工事を行った「五庄屋」と、その後の増税による16万人もの農民一揆の歴史を伝える。
幾筋もの筏道を持つ石床の旧大石堰は、昭和31年に大改修されコンクリートの堰となった。堰から引水された水は何度も反復利用されて水田地帯を潤した後、ことごとく筑後川の本川に戻されていた。その維持管理、水路の整備は、営々とした農民の努力によって支えられていた。
 3.山田堰と堀川用水、朝倉重連水車群
今も江戸期の姿をとどめる山田堰は、天明飢饉後に庄屋古賀百工によって大改修されたものである。工事費用を村々が負担し、延62万人もの農民の汗が作り上げた総石畳の堰は、川の流れと舟運、魚のそ上を分断することなく、200年以上も堀川用水へと水を送り続けてきた。今も筑後川右岸600haを潤している。
山田堰の絵図
 昭和20年代の山田井堰  山田井堰  山田堰から引水される堀川用水の水を右岸水田に引水する朝倉三連水車
 4.恵利堰、床島用水
筑後川四堰で最後に作られた恵利堰。石を満載した古舟を沈めて基礎を作る難工事を経て完成し、床島用水によって右岸を潤してきた。近年魚道を持つコンクリート堰に改修された。
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